・村役場での経験(震災前)
これまでの取組み_村役場での経験(震災前).jpg
平成15年頃 飯舘村役場総務課での仕事風景

 役場入庁後1・2年目は、税務課(機構改革後「住民課」)で、国民健康保険税、介護保険料、住民税納税申告などを担当し、「税」のことを分かりやすく正確に伝えることが私のつとめと心に決め、村広報での周知などに取り組みました。

 3年目からは総務課配属となり、選挙管理、議会(併任)。消防防災、電算推進、庁舎管理など、様々な業務を5年間にわたって担当しました。また平成20年度からの2年間、財政係で地方債等の償還のほか、地方交付税の算定事務や10か年シミュレーションを担当し、法制度化されて初めての村財政健全化判断比率等の算出、広報をしました。

 このときの多様な業務への即応が求められる総務課での経験が、のちの震災・原発事故の際の「すべてが初めて、すべてが応用編」の対応に活きたと思います。

 2010(平成22)年度からは産業振興課に配属され、令和2年7月に退職するまでの10か年3か月間(うち9年4か月間は震災後の復興創生期間)、農政分野を担当しました。

・村役場の外での活動・経験
これまでの取組み_村役場の外での活動・経験.jpg
平成15年春 新春村民の集いにて
(広報いいたて 平成15年6月号)

 私にとって、入庁1年目から村の第5次総合振興計画策定委員会や村まつり実行委員会に参画する機会をいただけたことが、その後の自分の在り方に大きな影響を与えたと思っています。

 この委員会での議論の中で、村の課題の数々を知るとともに、それぞれの立場、思いを持って村を盛り上げている人々のアイディア、熱意に触れ、関われることの喜びを噛み締めました。

 また教職員を目指していた過去も手伝って、役場職員となった後も、将来を担う子供たちが主役の事業(大自然塾、海洋アドベンチャースクール、合宿通学など)に、積極的に参加し、お寺でも小学校1年生のお祝い会(初参式)を毎年開催していました。

 Iターンした私は、「早く村びとになりたい」「多くの人たちと村を楽しみたい」との思いが強く、ボランティアリーダー研修や公民館事業、村まつり、日本再発見塾などに参加した経験を活かして、震災前の2009(平成21)年、2010(平成22)年に、草野、深谷、伊丹沢、関沢、宮内の5行政区による合同納涼まつりを企画・開催しました。

 このときの夏の夜空に打ち上げられた花火が、今でも忘れられません。

これまでの取組み_新入学児童お祝い会.jpg
平成13年頃 新入学児童お祝い会にて
(善仁寺 初参式)
これまでの取組み_ボランティアリーダー研修.jpg
平成16年頃 ボランティアリーダー研修
「新たな出会いと出会い直しのパーティ」
・震災対応

 入庁して10年目にあたる2010(平成22)年度の末、2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災とその後の原子力発電所事故が、村そのものを一変させました。

 私は出張先の福島市内から、途中火事や道路崩落に注視しつつも、村がどうなっているか心配でたまらない思いで、停電で信号機の点滅さえなくなった道路に公用車を走らせました。

 農政係員だった私にとって村防災計画上の任務は農業災害等の情報収集・整理でしたが、総務経験が比較的長く、消防・防災・電算・職員配置等の業務を同時並行でこなせる人員として、翌3月12日から災害対策本部付けとなりました。

 災害対策本部では停電が続く中、さらに電話が不通になる中で、各部署から上がってくる膨大な地震被害情報を整理・共有することが必要でしたが、楢葉町や双葉町、南相馬市などからの約1200人の避難希望者のために、順次、避難所を開設しましたので、当初5日間は役場に泊りがけで対応にあたりました。

 そのさなかの3月14日(月)は、私の誕生日でもありましたが、村の停電が復旧し、明るさとわずかな希望を感じたのも束の間、福島第一原子力発電所建屋の爆発映像が目に飛び込んできた日でもあります。

 この日は一生涯忘れられない日となりました。また大学院を卒業してから10年目のこのときから、図らずも放射性物質や放射線防護に関する知識をフル活用することになったのです。

 私はパソコンを使った電算処理が得意だったこともあり、震災情報の整理、避難者受け入れ、原発事故、線量測定・グラフ化、燃料確保、自主避難、水の摂取制限対応、飲料水配布、汚染状況の把握、計画的避難指示対応、被災証明の発行、義援金の配布、避難意向調査の集計、家電セットの搬入日等管理、1次・2次避難先の情報管理など、災害対策本部で議論された村民対応で、おおよそ関わらないものはなかったと記憶しています。

 また計画的避難指示が出る前は、自主的に村に残って公私の分けなく対応にあたっていた若手世代と、夜がふけるのを忘れて話し合い、子供たちの避難や村の行く末に自分たちが為すべきことを考え、それぞれが実行していきました。